やっぱり右側に気をつけろ

深読みと勘違いのドドスコ批評。

尊厳と引き換えの生活保護。「わたしは、ダニエル・ブレイク/ケン・ローチ監督」

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生活保護は尊厳と引き換えなのか。この映画は徹頭徹尾そのおかしさを伝える。

「福祉の罠」という言葉がある。例えば失業中の身であれば、職を得るためには自分が健康であり能力のあることを示さなければいけない。一方で、公的な援助や補助金を支給してもらうためには、自分はいかに困窮しており、どれほど弱い存在であるかをアピールしなければならない。

本物の弱者

そして支給を決める職員からみれば、こいつは「本物の弱者」なのかと、その視線の前提は疑いだろう。某市役所の職員による「生活保護なめるな」ジャンパーは記憶に新しい。まさに「屈辱と疑惑」を生む福祉制度である。

支援が必要な困窮した中高年である主人公、ダニエル・ブレイク。彼はそんな手続きの現場で右往左往する、いや、させられる。出来るのは触ったことのないパソコンの前で天を見上げることだけ。

ケン・ローチ監督の誠実

特筆したいのはケン・ローチ監督の誠実さだ。監督は社会問題をネタに自分の作品をつくっているのではない。ただその「おかしなこと」を伝えるためだけに映画表現を利用している。そんなふうに見える。そのことを伝え、知ってもらい、なるほどこれはヘンだと、ひとりでも多くの人にその問題性を共有共感してもらうこと。

面白いことが必須

その機能のために一番大事なこと、それは、社会派映画だからと言って、声高のヘタレ正義で多くの人にヒかれるわけにはいかないのだ。「ウけなきゃダメ」なのである。

はたして見事に面白い。主人公の心臓病というフリ、そりゃ最後に死ぬでしょう。観客はそれを薄く待ちながら最後までダニエル・ブレイクと一緒に頭を抱え、深い溜め息を漏らす。キャストも全員魅力的。ケン・ローチの誠実。

ダニエル・ブレイクは私だ

ところで昨今のデモ風に言えば「ダニエル・ブレイクは私だ」ということになるかもしれない。当事者は常に少数だ。しかし少数であるその当事者のことを「私だったかもしれない」と、当事者ではない多数の人々の想像力によって福祉は支えられる。

ところが「ダニエル・ブレイクはただの迷惑」もっと言えば「ダニエルブレイクにだけはなりたくない」と、他者に自己責任を強いながら自己保護を図る、すなわち俺ファーストで何が悪いのかと開き直りつつあるこのトランプ的世界。引退撤回のケン・ローチ80歳。ぜひ多くの人に観て欲しいと思える作品。

プライムでもすぐ観れるみたいです。