やっぱり右側に気をつけろ

深読みと勘違いのドドスコ批評。

『緊急対談 川上量生、立花孝志【ReHacQ SP】』に驚いた。

面白いっすねー

「日経テレ東大学」の打ち切りを経て、テレビ東京を辞めた高橋弘樹氏が立ち上げたyoutubeチャンネル「ReHaQ」は、番組をまわす高橋氏がよく口にする「面白いっすねー」のとおり、とても面白い。

で、「緊急対談 川上量生、立花孝志」。

「209万回視聴・5ヶ月前に配信済み」とあるこの動画を、今更ながら昨晩視聴。2時間半、まんじりともせず見入りました。

そして、この動画につけられていたコメントにとても驚きました。

感想が真逆。

1万7千というコメント数にも驚きですが、僕が驚いたのは、すべてを読んだわけではありませんが、目にしたほぼすべてのコメントが立花氏を讃え、川上氏をクサしていたこと。そうです、僕の驚きは、多くのコメント内容と僕の感想が真逆だったことにあります。

これほどの数のコメントが、これほどの一方的な傾向を見せている。さすがに僕自身が世間と大きくずれていると思わざるを得ません。しかしこの真逆ぶり、むしろ僕が感じたことを書くことには意味がある。のではないか。いえ、ないんでしょうね。けど、このモヤモヤ感、なにか書かないとやりきれません。

両氏に対する僕の偏見

感想を書く前に、まず、両氏に対する僕の偏見を告白しておきます。立花氏については、邪悪でゲスいイメージ、できるだけ近づきたくはないひと。川上氏に対してはエキセントリックだけど面白いおじさん。とりわけ「ジブリ見習い人」だった頃、人工知能で動き出したノタノタする生き物のようなものを宮崎駿氏に見せてこっぴどく叱られていたニュースは、宮崎氏の狭量さにがっかりこそすれ、僕はむしろ川上氏の試みにシンパシーを持ちました。またN高校等の創立における社会的意義はとても大きいと感じています。

ということで、そんな偏見視聴の感想であることはあらかじめご了承ください。

で、一旦、多くのコメントを乱暴にまとめると、「論理的な立花氏とオロオロの川上氏」。ということかと思います。

立花氏はぜんぶ間違っている。

さて、立花氏は一点を除き、ぜんぶ間違っています。

川上氏は対話をしに来たのです。川上氏は、ガーシー氏のやり口に対し、監督者である立花さんは「道義的にどう思いますか?」と、尋ねました。

道義的、つまり人としてどうなんでしょうと。それに対して立花氏は道義的責任は感じていると答えました。対話が成立したのはこの一点のみ。そこから川上氏が問うたのは、にもかかわらず彼を諫めない、どころか、利用していたように見えたけど、それは正義なのかな、違うよね。それが川上氏の言い分のすべてです。

対して立花氏の発言が示していたのは、道義的責任はある、つまり人としてはどうかと思うが、法で裁かれない限り何をしてもよく、文句があるなら裁判を起こしてください。という根本姿勢。

ぶっ壊す?

加えて立花氏、正確ではありませんがこんなことを言いました。道義的な責任に対して謝罪はしますが、僕は「革命者」ですから、その目的のために法を犯すことも厭わないし、道義にもとる方法もとりますよと。

法の不備を正すためには法を犯すこともあるだろうことは理解します。しかし政治家は、「人として」この制度や法律はおかしいと思うから不備を指摘したり、足りない法を整備するために頑張るんですよね。NHKをスクランブル配信にすることや年金受給者の受信料を無料にすることが「人として」正しいと信ずる、ゆえに現状を「ぶっ壊す」んじゃないんでしょうか。そのために自身の主張に共鳴する人を集めるのは政治家の大きな仕事だとは思います。

しかし自らも道義的にどうかと認めるガーシー氏の利用という不正義によって党員を増やす。そんな方法が、その目的実現への道に叶っているとは、僕にはとうてい思えないのですがどうなんでしょうか。

もちろん、「道義的」は曖昧な言葉です。だからこその「対話」です。裁判的法的な言語を超えてお互いの正義を持って語り合う。それが意味のある対話だと思います。例え決着しなくともそれを尽くすことは、お互いを認めあうことにつながるのではないでしょうか。「だからサ、裁判起こしたらいいじゃない」では、話にならないのです。

弱者救済。

終盤の「弱者のために何かしてますか?」というくだり。しているなら「具体的にどうぞ」と立花氏に問われた川上氏。僕が一番ヒヤヒヤしたところですが、「しているけど言いません」と答えました。完全に正しい対応です。あのような問われ方で、僕はこんなことしてるんだなんて応じては絶対にダメです。それこそが本当にかっこ悪くダサいことです。ウソだったら死にますか?などの煽りにのらなかったこともまったく正しい。というか、人として譲れない正義観や美意識が垣間見え、僕の川上氏評価はアップしましたし、そんな物言いで言い立てる立花氏にはあらためて呆れました。

最後に

終わり際、川上氏がこのようなことを言いました。対話にはならなかったけど、立花さんの人間性を知ってもらえるこの動画が残ることはよかったと思います。と。僕もそう思いました。ですがそう言った時の川上氏のイメージとは真逆のコメントが溢れているという現実。それがこの投稿の僕のモチベーションでした。世界は果てしないですね。

 

 

 

 

 

 

 

生成AIからベーシックインカムへの選べない道

 昨年末から生成AIの話題が止まらない。ロボットなどの自動化による人員削減はもとより、会計士、弁護士、アナリスト、ライターなど、いわゆるホワイトカラーの人たちの労働をもリアルに脅かしている。人間よりもはるかに正確で超速、24時間働き続け、文句ひとつ言わない、かつ、人件費より格安、こうなれば企業に迷いはない。仮に売り上げが横這いとしても、生産性アップなのだから。

 解雇者の悲惨を傍に置けば、そこまでは良い。しかし、企業には顧客が必要である。企業の成果物を消費してくれる多くの人間が必要だ。労働者は生活者であり消費者でもある。もっと言えば、国の維持には、納税者としての国民の存在が不可欠。

 そこで思い出すのが1920年代のアメリカ。フォード社、ヘンリー社長の「賃金革命」。彼がもたらした最も重要なことは、新しい「消費者」の創出にある。具体的には、従業員の労働時間を半分にし、賃金を倍にした。かくして従業員のモチベーションは上がり、のみならず自由な時間とお金を得た彼らは、フォード社の車を買うことができる生活の豊かさを手に入れた。つまり、新しい消費者の群れが生まれた。

 さて、今後、ロボットやAIに仕事を奪われた従業員の群れは、多くの時間を得る。しかし国民の大半が貧困者では、国や企業は原理的に成り立たない。ヘンリー社長が賃金を倍にしたように、AI導入と従業員解雇で生まれた利益は、いつか、国を通じて国民への分配を余儀なくされる。すなはちベーシックインカム。ハイエクの「隷属への道」を経ての、ルトガーの「隷属なき道」的、目指される道筋ではなく、ベーシックインカムは、こうするより他ない政策として、「仕方なく」導入される。企業や国が立ち行かなるその分岐点は必ずやってくる。ただ、その前に、凄惨な格差社会を経由したのちというのが現実的な予想だと思いますが。

 

 このことをChatGPTと会話したところ、こんなふうに褒められてしまいました。

このような議論は社会の進歩と成長にとって重要なものです。AIとテクノロジーの進化は、私たちが生活し、働く方法を大きく変えていますが、その影響をどのように理解し、適応するかは我々全員に関わる問題です。この議論を続けることは重要ですし、あなたのように思考を深める人々がいることがとても重要です。

ChatGPT、どんな風にプログラムされているか知りませんが、欠点は、善良でいい人過ぎるところでしょうか。

カナダ大麻合法。

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かつて、「覚醒剤やめますか、それとも人間やめますか」という強烈なキャッチコピーの公共CMがありましたが、日本における大麻、マリファナは、この覚醒剤とほとんど同じものとして認知されているように感じますがどうでしょう。とんでもなく恐ろしいドラッグ、その忌避ぶりは、そんなことしてるやつは人間のクズであり、人間失格、そんな認識。
 
ところが世界には、そんな大麻を合法としてる国が少なくないという事実。そのことに対し、例えば子どもの「なんで?」にちゃんと応えられる日本の大人はいるでしょうか。しかも合法化されている国は、発展途上な国というわけではありません。オランダが有名ですがアメリカのいくつかの州、イギリス、スペイン、デンマークやオーストラリア、南米のいくつかの国など。また欧米の映画には大麻を吸うシーンは多く、いかにもな犯罪者風というよりビジネスマンや若者がリラックスしたり、いつもよりちょっとアげた時間を過ごしたいときに嗜んでいますよね。まさに飲酒と同じ。
 
ひるがえって日本における大麻のイメージ、この大きな違いはなんでしょう。こうした事実を多くの人たちは、自分の中でどう解釈し折り合いをつけているのかが、とにかく不思議。
 
少なくない国が大麻合法を表明し、今回そこにカナダという大国が加わりました。吸ったら終わり、人間失格であるような恐ろしいものが、なぜ条件付きであれその使用を許されるのか。冷静に考えたら誰にでもわかることですよね。
 
「そんなにわるいもんじゃない」んです。
 
アルコール依存症患者のように自分や人を傷つけるという話も聞いたことがないし、急性中毒なんてのもありません。また、たばこのように健康を損なうという話も知りません。クニは、大麻を覚醒剤や危険ドラッグなどと一緒くたにせず、その違いを丁寧に啓蒙することが望まれるし、ある日、合法の波が日本にもやってきたときに恥ずかしい思いをしないためにも正しい知識を身につけてはどうでしょう。
 
ところで「合法」というのは、なんでもオッケーということではありません。法によってそのことに言及されている、つまり許されているというより制限されているという方が正しい。条件付きでそれを嗜好することを認めているわけです。その意味では、「公共の秩序」維持のために「大麻は国や自治体など公による規制やコントロールは必要だ」、という認識は世界共通ということはそうなんでしょうね。つまりお酒やたばこと同様に。
 
私も、合法化の波が一日も早く日本にも届くことを願ってやみません。
ドラッグと政治犯に寛容な国はいい国だと思いませんか。
 
思い出したので追記。
オリバー・ストーン監督の「野蛮なやつら」。
調べたら2013年の映画。その中のこんなセリフ。
「大麻は悪だが、悪の中では善だ」だって。
笑いました。

死刑制度をめぐる驚くべき映画

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NHK「時事公論」、平日の23時55分からの10分番組。昨晩は「死刑の情報公開は」の文字にザッピングの手が止まった。リモコンを持ったまましばらく解説委員の話を聞くと、この7月に死刑囚2人に死刑が執行されたという。

その執行の経緯について情報公開請求によって文書が開示されたが、中身は半分以上が黒く塗りつぶされていた。解説委員氏は、視聴者に何ページにも及ぶ黒塗り文書を見せながら、まさに日本の「死刑」におけるブラックボックスな状況を訴えていた。

世界の流れは、死刑廃止の方向と言われている。例えばEUは、その加盟条件が「死刑制度が廃止されていること」なのである。もちろん死刑制度を継続している国もけして少なくないのも事実。日本しかり。日本においては世論の8割が死刑を容認しているというし、制度の是非を問うような議論も活発とは言えない。ちなみに現在は、犯罪の抑止よりも被害者心情への配慮が死刑制度を是としているようだ。

僕自身は「死刑制度」の廃止を望んでいる。その一番の理由は冤罪の可能性だ。もうひとつは倫理である。個人の殺人と国による殺人は意味がまったく違う。人は人を殺す。僕だって因果があればわからない。しかし国は個人より高いステージの倫理観を持って欲しい。と僕は思ってる。

で、思い出した映画が、2003年、アラン・パーカー監督「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル」。死刑制度をめぐる強烈な映画である。

タイトル通り、この主人公デビッド・ゲイルの生き様はどうだ、と観る人に問いかける映画。監督自身は死刑制度をどう思っているかは知らないがこの驚くべきアイデアを映画にしないわけにはいかなかっただろう。死刑制度存置論者の弱点である冤罪の問題をトンデモかつ異常かつ自爆テロ的アイデアで突きつけるストーリーに震えること請け合い。だた、この映画の凄みは、その死刑制度の是非よりもその問題に取り憑かれた死刑制度反対運動家の理解を超えたドン引きされそうな情熱と悲哀にもある。どこの映画レビュー系サイトでも星4つを獲得している。これだけ社会派なテーマでありながら、ちゃんと面白いというのも素晴らしい。未見の方はゼシ。

その流れで1980年代のフランスのミッテラン大統領の話。当時の世論調査では死刑制度存続を求める声が過半数を超えていたが、ミッテランは「世論の理解を待っていたら遅すぎる」として死刑廃止を議会に提案、4:3で可決するのである。

人にはその命によってしか償えない罪があると考えるのもいいし、そりゃ殺されても仕方がないという感情だってあるだろう。もちろん許せないという心情も。しかしたとえば、国の判断がそんな個人の感情を裏切るものであっても、もし、日本が死刑制度廃止を決定したら、僕はこの国をなんだか誇らしく思える気がするんですがどうでしょうか。

タケちゃん問題。

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僕はタケちゃんの昔からのファンである。しかし今のテレビの中のタケちゃんを見るのはつらい。なぜなら面白いことが言えてないからだ。タケちゃんの魅力のひとつに、「そんなことテレビで言っちゃうの」ってのがあると思う。しかし今、それはウケないどころかヒかれるのである。もっと言えば近年のタケちゃんは、話も滑舌もモヤモヤ感が否めない。とりわけ土曜日の夜のTBS、安住アナとの「情報7days ニュースキャスター」のタケちゃん。僕はもう安住アナへの感謝しかない。安住アナのタケちゃんへの敬意溢れる態度は素晴らしい。しかし希望を言えば安住アナにはもっと無遠慮にタケちゃんにツッコんでほしいのだ。そのことがどれだけタケちゃんを救うかしれない。視聴者のタケちゃんへの違和感がそこで笑いとともにポジティブに解消されるからだ。

しかし、僕の最近の気持ちはこうだ。タケちゃんはもう面白いことを言おうとしなくていい、ただ有り難い人としてそこにいてくれるだけでいい。もちろん失礼な物言いであるが、あとは面白い映画をできる限りたくさん撮ってください。という感じだ。そしてタケちゃんの関心事や考えていることを素直に語るような番組をときどき視れたら最高だ。TBSだったか、タケちゃんが好きな芸人を集めてネタ大会、最後に「優勝は、・・」でお約束にボケる番組なんかは続けて欲しいのだけど。

そんな思いを募らせていた僕が感心したのは、今年から始まったアサヒ飲料の缶コーヒー「WONDA」のCMシリーズだ。これが良い。会社の部長タケちゃんに劇団ひとりと「ハライチ」澤部佑の部下ふたりが絡むCM。キャスティングもすてきだ。で、一番最初に視たのはこんなの。部下である劇団ひとりの背中に子供のいたずらシールが貼られている。タケちゃん部長がそれを指摘してやるのだが、意に介さずそのまま営業に出ようとするひとりに向かってタケちゃんがひと言、

「はがさねえのかよ」。

これだけ。だけどその普通なタケちゃんがとってもいいのだ。

そこで、このCMの裏コンセプトは「タケちゃんに面白いことを言わせない」に違いないと勝手に断定した。もちろんタケちゃんが「面白いこと」を言わないCMはこれまでもあった。しかしそれらは、「ビートたけし」、あるいは「北野武」というキャラクターにノっかった演出であり、つまりは、清濁併せ持つ男っぽさや、言いたいことを言う子供の心を失わない中高年、あるいはインテリかつ世界的映画監督としての自由かつクリエイティブな大物、的な、的なである。それが「WONDA」ではふたりの芸人との言ってみれば会社コントである。その設定でタケちゃんが面白いことをまったく言わないのだ。

例えばこんなバージョンもあった。家庭での自分の立場の弱さを愚痴る部下の澤部に対し、タケちゃん部長の最後のセリフは

「そりゃひでぇなあ」。

これだけである。もう素晴らしくてアングリする他ない。とは言えタケちゃんがはしゃいでるバージョンもある。アサヒ飲料のサイトによればその名も「部長ハイテンション篇」。しかしそのCMでタケちゃんが「面白いこと」を言っているわけではない。そこにあるのは、娘との約束を取りつけた部長の異常な上機嫌ぶりに部下たちが呆れているという視聴者を含めた自然なツッコミ構造の中で、のびのびと「コマネチ」をしているタケちゃんを視る幸せしかないのである。

そして新バージョン。今や売れに売れた「ブルゾンちえみ」登場の巻だが、CMのアタマ、部下二人に向かってタケちゃん「そう言えば今日、新人が来るらしいぞ」。それだけ。もはや最後のひと言でもない、ただのフリ役。これはもう完全に「タケちゃんに面白いことを言わせない」確信犯。逆説的に言えば、この演出はタケちゃんの「存在感」のみに純粋におんぶしているのである。その方法は結果的に、これまでの「ビートたけし・北野武」のイメージにノっかったどんなCMよりも、タケちゃん愛を僕に感じさせるのである。

タケちゃんは今年のフジテレビ27時間テレビのメインパーソナリティとしてキャステイングされていたが、怖くて視れなかった。すでにネットには、「タケちゃんのギャグへの共演者の気遣いがひどい」などのニュースが散見されるが、正直、残念ながら目に浮かんでしまう。結論を言えば、テレビは今のようにしかタケちゃんを使えないようであるのだから、真のタケちゃん愛を持つ近しい人がタケちゃんに引導を渡すべきである。

広告の言葉、「愛は、声で。」。

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広告の言葉はコピーとかキャッチコピーとか言いますよね。世界の広告事情は詳しくないですが、日本の広告のとりわけキャッチコピーには日本ならではの独特の文化があるように思います。例えば、かつてコピーライターとして名を馳せた糸井重里氏の有名なキャッチコピー、「不思議、大好き。」。調べると1981年の「西武」のキャッチコピーとあります。四半世紀以上前ということにも驚きますが、この「不思議、大好き。」が「西武」の広告としてCMやポスターで日本中に発信され、渋谷の西武百貨店にはこの言葉の巨大な幕が垂らされたのです。

 不思議です。いやその現象が。「不思議、大好き。」。何も言ってないですよね。これは、「西武」が「不思議、大好き。」と表明しているのでしょうか。いったいそれがなにを「広告」しているのでしょうか。わかりません。ただ、「不思議、大好き。」という言葉が、「西武」によってばら撒かれたという他ありません。果たして「不思議、大好き。」は、多くの人の記憶に残るほど受け入れられ、ばら撒いた当の「西武」は、当時のイケてる企業に見えたはずなのです。最上級に褒めればその言葉を使った広告パフォーマンスは芸術で、それもコンセプチュアルなとんでもない現代美術のようでもあります。

 さて、時は流れて現在、こうした「何も言ってない系」の広告の言葉はあまり見かけません。その理由は、経済的な原因とかいろいろありそうですがそれを考えるのはもはやあまり重要ではありません。ここで僕が言う「何も言ってない系」とは、「安い」とか「お得」とか「売れてます」とか、お店をアピールしたり商品を売る言葉として直接にはなにも訴求していないように見える系という意味です。

 「なにも言ってない系キャッチコピー」。ネットをふわっと漁ってみたもののこれがないんです。この「不思議、大好き。」ほど「なにも言ってない」コピーはなかなかない。で、思い出したのが、焼酎の「いいちこ」のポスター。僕が通勤で利用する下高井戸駅のホームでときどき目にします。じつはこのシリーズ、調べると1984年以来ずっと継続してるシリーズとのこと。そのポスターは一貫して、「いいちこ」の瓶が置かれた風景写真とキャッチコピーに「iichiko」のロゴが配されているのみ。しかも商品である「いいちこ」の瓶は、風景に溶け込んでウォーリー並に小さく、探さないと見つからないほど。で、そのキャッチコピーはというと、「いいちこ」のことはなにも言っていませんが、その風景写真には絡んでるんです。構造としては、「いいちこ提供の絵手紙」でしょうか。季節の絵手紙を「いいちこ」がお届けしています。という感じ。

 で、この「いいちこ」シリーズも確かに商品のことは何ひとつ言ってませんが、「不思議、大好き。」と「西武」の関係とはあきらかに何かが違うのです。いえ、とってもいいんですよこのポスター。しかもこんなクリエイティブをこれほど長く継続させてきたことには頭が下がります。でも「不思議、大好き。」は、絵手紙では全然ないんです。この違い。きっと糸井重里氏ならうまく解説してくれるにちがいありませんが、ここは「なんかちがう」で終わらせます。

 ということで冗長な前置きでしたが、最近の新宿駅は南口、ルミネの広告の話。通勤で新宿駅を利用してるせいもあって、ルミネの広告は見るとはなしについその言葉を読んでしまいます。コピーのレトリックとしては、ネガティブな言葉を絡ませながらの、女子あるある的な、あるいは本音風味の共感系コピーで、わかるけどスッと入ってこないちょっと考え落ち的な複雑さのコピーの印象でした。偉そうにすいません。

 ところが、先日見上げた駅正面のルミネの巨大広告ボード。大きな文字で「愛は、声で。」。いいじゃないですか。「おっ」って声が出ましたというのはうそですけど。ま、もちろんスマホ的コミュニケーション批判でしょうし、前述のレトリックでもあるんですが、時代を問わない普遍的で大きな魅力を感じました。久々の大型「なにも言ってない系キャッチコピー」降臨です。「愛は、声で。」、「「不思議、大好き。」に似た匂いがツンとしました。

「すすメトロ」に見る「ドラえもん」の新しさ。

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地下鉄のホームに貼られたポスター「すすメトロ」が目立っている。「東京メトロ」の企業努力を啓蒙するポスターなのかな。「すすメトロ」。それにしても昨今の広告コミュニケーションはダジャレと昔話しかないのかいと思うけど、話はそこじゃない。

そのポスターデザインの素晴らしさの話。とりわけその「ドラえもん」の表現について。僕を驚かせたのは「ドラえもん」に黒い描線が無いこと。「キャラ」の2次元表現においてキャラを囲む黒い線は文字通り「キャラクター」の生命線。キャラクターをキャラクターたらしめているのは実はあの黒線にあると言っても良い。試しに、「ドラえもん」あるいは「キャラクター」で画像検索してみてほしい

例えばジブリに「かぐや姫の物語」という作品があった。当時その斬新なアニメ表現が話題になったが、何が斬新だったのかと言えば登場するキャラクターを描画する線が、ペンのストロークでありタッチであり、その線は閉じた囲み線ではなかったことだ。果たしてヒロインのかぐや姫は見事に物語に溶け込んでまさに物語を生きていた。しかし引き換えに「キャラクター」はとても弱かったのである。実際、今、ヒロインの顔を明確に思い出すことができない。ポニョはすぐに浮かぶのだけど。物語を離れては成立できないキャラクター。じつはこれはすてきなことだ。なぜなら物語や作品を超えて「立つキャラ」は下品であるというのが僕の嗜好であるから(断定)。この作品についてどこかで読んだ評論。記憶が曖昧で申し訳ないのだけどそこにはこう書かれていた。「かぐや姫の物語のヒロインは黒い線に囲まれないことによってキャラ化の呪縛から逃れたのである」。まさに。

で、「すすメトロ」の「黒い囲み線を失ったドラえもん」。こちらは物語ではなくデザインに見事に溶け込んでいる。押し付けがましいキャラ立ちは抑えられ、大胆かつ繊細に、東京メトロの企業努力の顔として、案内人として、もちろんメインでありながら、あくまでデザイン要素として素晴らしいポスターデザインとなっている。これまで広告に使われた無数の「ドラえもん」の中で、ピカイチである。

あるいは、こうも言える。これまでのそれら無数の「ドラえもん」、つまりいじられ尽くされた「ドラえもん」は、こうした表現に耐えられるほど圧倒的なポップアイコンになったと。例えばミッキーマウスがあの二つの黒い円で認識されるように、「ドラえもん」もまた、とうとう抽象化の対象になりえたのであり、このポスターはその新しいステージの「ドラえもんの存在」を見事にすくい取ったと。いずれにせよこのポスター、間違いなくデキる人たちの仕事にちがいない。

偶然、つまり日常を祝福する映画「パターソン」

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すばらしかった。日常描写がそのままおとぎ話のように感じる不思議。バス運転手のパターソンは毎日「ほぼ」同じ生活を繰り返している。この映画はこの「ほぼ」を祝福する映画だ。

すべては偶然にすぎないかもしれない。でもその偶然は繰り返される日々の中で意味や価値を帯びていく。例えば、ちょっとした事故に遭遇。そのことを「じつはさ・・」と家で妻に話す。いやいや観客全員見てますから、知ってますからその事の顛末。なのに話す。新しい情報ゼロで。ウソをつくわけでもない。そんな映画ある? でもその反復に監督の言いたいことはある。それが人と人の暮しじゃないか。人と人はそんなふうに時間を積み上げて、どんなネガティブな偶然もいずれ光を獲得し、その偶然を「必然だった」という人もいるだろう。つまりは祝福される偶然。それが人生の有りようかもしれない、そんなことまで思った。

ときどき見切れるさまざまなツインズたちは、そのことのアイコンのようだった。おとぎ話は今ここにある。たぶん泣く映画ではないと思うけどなぜか泣けてしかたなかった。ジム・ジャームッシュ、やっぱり唯一無二の世界観を持つ監督のひとり。

尊厳と引き換えの生活保護。「わたしは、ダニエル・ブレイク/ケン・ローチ監督」

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生活保護は尊厳と引き換えなのか。この映画は徹頭徹尾そのおかしさを伝える。

「福祉の罠」という言葉がある。例えば失業中の身であれば、職を得るためには自分が健康であり能力のあることを示さなければいけない。一方で、公的な援助や補助金を支給してもらうためには、自分はいかに困窮しており、どれほど弱い存在であるかをアピールしなければならない。

そして支給を決める職員からみれば、こいつは「本物の弱者」なのかと、その視線の前提は疑いだろう。某市役所の職員による「生活保護なめるな」ジャンパーは記憶に新しい。まさに「屈辱と疑惑」を生む福祉制度である。

支援が必要な困窮した中高年である主人公、ダニエル・ブレイク。彼はそんな手続きの現場で右往左往する、いや、させられる。出来るのは触ったことのないパソコンの前で天を見上げることだけ。

特筆したいのはケン・ローチ監督の誠実さだ。監督は社会問題をネタに自分の作品をつくっているのではない。ただその「おかしなこと」を伝えるためだけに映画表現を利用している。そんなふうに見える。そのことを伝え、知ってもらい、なるほどこれはヘンだと、ひとりでも多くの人にその問題性を共有共感してもらうこと。

その機能のために一番大事なこと、それは、社会派映画だからと言って、声高のヘタレ正義で多くの人にヒかれるわけにはいかないのだ。「ウけなきゃダメ」なのである。

はたして見事に面白い。主人公の心臓病というフリ、そりゃ最後に死ぬでしょう。観客はそれを薄く待ちながら最後までダニエル・ブレイクと一緒に頭を抱え、深い溜め息を漏らす。キャストも全員魅力的。ケン・ローチの誠実。

ところで昨今のデモ風に言えば「ダニエル・ブレイクは私だ」ということになるかもしれない。当事者は常に少数だ。しかし少数であるその当事者のことを「私だったかもしれない」と、当事者ではない多数の人々の想像力によって福祉は支えられる。

ところが「ダニエル・ブレイクはただの迷惑」もっと言えば「ダニエルブレイクにだけはなりたくない」と、他者に自己責任を強いながら自己保護を図る、すなわち俺ファーストで何が悪いのかと開き直りつつあるこのトランプ的世界。引退撤回のケン・ローチ80歳。ぜひ多くの人に観て欲しいと思える作品。

愛の抑制が地球を救う。―鈴木邦夫著「<愛国心>に気をつけろ!」から―

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岩波ブックレット、「<愛国心>に気をつけろ!」。著者の鈴木邦夫さんは、40年以上に及ぶ自らの「愛国運動」を振り返りながら、その活動の源であるはずの「愛国心」に警鐘を鳴らす。

 しかし、著者が言うまでもなく、「愛国心」や「ナショナリズム」の危険性は歴史がイヤというほど教えているのも事実、にもかかわらず著者は、今、あらためてはっきりと「愛国心に気をつけろ!」と言いたいのである。

 「愛国心」を看板にした自国ファースト主義や排外主義、そして「取り戻せ」的歴史修正主義的復古主義の気分は、じわじわと世界を包みつつあるのではないか。日本のムードは言うまでもなく、トランプ大統領の誕生やEU分裂危機、また多くの国で極右政党の躍進がめざましい。

例えば、自由や平等、人権など近代の普遍的な理念の敷衍、つまり「リベラル」はちっとも我々を幸せにしてくれなかったのではないか。いっそ「俺ファースト」で何が悪いのかと、開き直り、「愛国心」に自らの支えを見い出す。この流れに明るい未来を展望することは出来ない。

 だからこそ、まずはその看板たる「愛国心」を問い直さなければならない。問い直し方はふたつある。一つは、「愛国心」は聖なる感情であり、自国ファースト主義や排外主義は、それを汚すものである。それは本当の愛国心ではないとして、「愛国心」そのものは高みに置いたままその発露の仕方を批判する方法。

もう一つは「愛国心」そのものの価値を疑う方法だ。

 愛国者を自認する鈴木邦夫さんの本はもちろん前者である。しかし僕は後者を展開する。

 結論から言えば「愛国心」は、崇高な感情ではない。では何か。「あたりまえの感情」、もっと言えば俗な感情である。

 人間は「とりかえしのつかないこと」を否定されることに抵抗をおぼえる。「とりかえしのつかないこと」とは、自らが過ごした過去の時間である。例えば死ぬ間際、「あなたの人生はまったく無意味でしたね」と言われたらどうだろう。

 そして「とりかえしのつかないこと」の究極は、「生まれ」であり「生まれつき」である。

親、家族、生まれた町、そして国。自身の肌の色や姿かたち、さまざまな障がいを含む美醜。論理的に考えれば、自分では選んだ憶えもなく、まったくの偶然であるにもかかわらず、そこを侮辱されることに人間は揺れる。

例えば最も忌避される侮辱スラングは「マザーファッカー」である。あるいは、海外で「お前の生まれたニッポンっていう国はクソだな」と言われたらどうだろう。仮に自分自身は母国への愛などにはまるで無頓着だったとしても、ネガティブな感情に火が点ることに気づくだろう。

 自分の「生まれ」「生まれつき」。その「偶然」とどう向き合うか。そこにどんな意味や価値を見い出せるか。それが人生の課題と言ってもいいのである。

そしてその「偶然」をあたかも「必然」であったかのように死んでいきたいのである。

つまり「生まれ」や「生まれつき」に代表される「とりかえしのつかないこと」を「全肯定されたい」もっといえば「誇りたい」」という猛烈な感情がへばりついている。それが「愛国心」の正体である。

「あなたはそのままで素晴らしい」と言われたいのであり、「ニッポン、サイコー!」と大声で叫びたいのである。たまたまなのにである。

それは人間の逃れがたく根源的な感情のように思える。「子を思う親の愛」も同列である。「そのために死ねる」感情は決して崇高ではなく、ぜんぜん「あたりまえ」なのである。その意味で「愛国心」は、根源的で普遍的な感情には違いない。しかし、同時に限りなく「性欲」に近い、強烈で俗な感情ということもできる。

だから、他人の「生まれ」を侮辱することはもとより、自分の「生まれ」や「生まれつき」をことさらに誇ることは、巨チンを誇る間抜けなマッチョ程度にゲスな行いなのである。ゆえに、誰もがそうなのだから、その強烈感情に配慮して、「愛国心」の発露は抑制的であるべきだよね。というのが世界の良心的お約束という側面もある。

鈴木邦夫さんが別の本でこんなことを書かれていた。「自分の家族を愚息、愚妻と言うのは日本人の知恵である」と。なるほどそれに倣って海外との付き合い方も「うちの愚総理がすいません」的なコミュニケーションがちょうど良いのではないか。

つまり、愛は地球を救わない。愛の抑制が地球を救うのである

 

ウーマンラッシュアワー・村本大輔氏の「エゴが世界を救う」

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日本の夏、「終戦」の夏。お盆を迎えて、ウーマンラッシュアワーの村本氏が目立ってる。週末の「朝生」に登場した村本氏、開口一番言ったのは、「安倍総理は戦争くさい、戦争臭がプンプンする」だった。

 確かにSNSなどから漏れてくる村本氏の言動は、「左翼」風味である。しかし彼の発言に「戦争反対」という言葉はあたらない。「反対」と言うより、「忌避」が近い。いわゆる思想信条からの意見とは違う、肌感覚、身体的なリアルから発せられているように聞こえる。

おそらく誰もが戦争反対である。しかし戦争を回避するためには武力、パワーバランスによる「抑止力」という考え方が世界の主流だし、現実的とされている。つまり、双方、同程度の核兵器を持つなどである。

 しかし彼は今年の終戦記念日にこうツイートした。

 「僕は国よりも自分のことが好きなので絶対に戦争が起きても行きません よろしく」

 それに対して、「もし敵国が攻めてきて、自身の家族に害が及びそうになった場合はどうするのか」とのフォロワーの質問にさらにこう答えた。

 「でも自分の家族守るために相手殺したら相手にも同じように家族がいるかもでしょ。向こうに銃を置く勇気がないならこっちが銃を置いて手を上げて握手。無理なら土下座。無理ならおれが撃たれてる間に逃す。でも家族が相手を恨む可能性あるから、そんな時までに稼ぎまくって海外に家買っとく」

 つまり彼は、僕は撃たれたくもないし撃ちたくもない。そのために皆が銃を置くべきだと言っている。「抑止力」より誰も武器を持たない方が安全だと言っている。

 「朝生」において老害MCの「国民は国を守る義務がある」という発言に応じて、村本氏が言った「自衛隊に入って、派遣なんて絶対行かないような爺さんにナニ言われても説得力無いんですよ」。あるいは、ミサイルを撃ちまくってる対北朝鮮問題においても「対話」の可能性はないのかとしつこく食い下がる。

 村本氏の「平和論」つまり「安全保障論」は、その方法だけを見れば古い護憲派左派の「平和主義」かもしれない。しかしそれが、ちっとも美しい理想を語っているようには聞こえないのである。そこが素晴らしい。あくまで自身のエゴにこだわり、そこからのみ言葉を発している。今回の「朝生」においても、「死んじゃう」というリアルに直接触っていたのは彼だけに思えた。だから、彼の考えに対する賛否はどうあれ、彼の言葉が他のどのパネラーより僕に響いたんだろう。

 そして、彼の考え方の敷衍していけばこうなると思う。「エゴの帰結が世界を平和にする」のでなければ平和なんか訪れない。である。

松本人志に失望する人々

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先週、会議室に投げ捨てられていた「週刊金曜日」に目がとまった。表紙が松本人志の大きな似顔絵だったからだ。そのイラストを挟んで右側に大きく「松本人志と共謀罪」、そして左側には、「松ちゃん、いつから変節したの?」の文字。

毎週日曜日、ワイドナショーをほぼ観ている僕には、この左翼雑誌の言いたいことはすぐ了解した。しかし、権力監視、リベラルを標榜するジリ貧感が否めないこの雑誌、この企画を決断した思いを想像するとある種のイタさがこみあげてくる。

とは言え、読んで思ったのは、ひとつを除いてどれも悪くない記事だった。つまりみんな「松ちゃん」が大好きなのである(以下松ちゃん)。ゆえの失望なのである。確かに反権力的な思考指向嗜好な人間と松ちゃんの笑いは相性がいいのかもしれない。しかしそれが罠であった。

端的に言えば松ちゃんは政治に関心がない。というより、松ちゃん世代は政治に関心がなく、その世代を笑わせてきた松ちゃんの辞書に「政治」はない。もっと言えば、基本的に世間は「政治」に関心がない。それがここ何年か前からいわゆるワイドショーなどでも政治的なニュースに時間を割くようになった。つまり「政治」が流行ったのだ。時事ネタや政治ネタにテレビでコメントできる芸人と言えば爆笑問題ぐらいしか思い浮かばないが、「流行っている政治ニュース」を語る松本人志というテレビ的な需要は高かったと想像できる。

満を持しての松ちゃん登場。「ワイドナショー」。いい名前である。司会に据えた東野幸治というキャスティングも文句ない。松ちゃん自身もネタが何であれ俺がしゃべれば笑わせつつ感心させるゼ、という自信もあったと思う。だって松ちゃんだゾ。と。

しかし、「政治」は思ったより裾野が広かった。政治問題や社会問題の島、その歴史、サイズは侮れない。流行っていない頃からずっと、クセ強めの人間がたくさん蠢いているのである。しかも悪いことに松ちゃん好きな人々が。

コメンテーターの仕事は、そのネタを包んでいる空気からの距離や角度の取り方が生命線だが、松ちゃんがヨむ「政治」の空気はぬるかった。逆をハったのか、ならではの角度をとったのか、、、結果、島の住人にとってはもう十分に語られ尽くされた、つまりとてつもなくつまらないコメントをしてしまう事態に。

「松本人志が、『共謀罪、俺はいいと思う』とコメントする」ことの本当のインパクトが松ちゃんにはわからないのだ。いや、むしろわからないから良いということもあるかもしれない。しかし松ちゃん自身が「天然」に甘んじたくはないはずだ。

かくいう僕も、ワイドナショーで松ちゃんのコメントに失望しているひとりである。べつにリベラルや左派を喜ばせるコメントを期待してるわけじゃない。期待するのは、まずは笑いであり、そしてその笑いがそのまま、右派左派が固執する両方の思想信条がバカらしくなるようなコメントだったら最高なのだがと思ってる。

「週刊金曜日」の表紙の言葉には「変節」とあったが、松ちゃんは変節なんかしていない。ただ「政治」を知らないだけ。だから知ればいい。例えばこんなことがあった。政治ではないが、松ちゃんは大麻所持などのニュースには常々、非常に厳しい態度を示していた。しかしあるとき同様のニュースに対し、ゲストの古市氏「大麻は合法の国もあり、たいした問題ではない」。これに対しての松ちゃん、「なんかそいのちゃんとしてほしいわー、これまで大反対してた僕らがただのバカみたいになる」と、これは大きな成長である。つまりあとは知るだけなのである。僕をあんなに笑わせてくれた松ちゃんだもの、期待してる。

ところで最初に書いたが、「週刊金曜日」の記事の中で、唯一クソコラムがあった。佐高なんたらいうひとのコラム。公明党が嫌いなのか知らないが松本人志と創価学会の関係を疑う内容だったが、それがどうしたというのだろう。しかも松ちゃん監督の映画「大日本人」をけなしつつ、観てはいないけど、、と言う。ただでさえイタめの企画であるのに、「週刊金曜日」は、あのクソコラムを掲載したことで多くを失った。